2009年09月06日

山辺の道には

こんばんわ(笑顔)

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山の辺の道

山の辺の道とは、奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る道です。

今は、一般的に、石上神宮から大神神社までの道を指すことが多いようです。
詳しく知りたい人は、こちらを読んでください。 大和の古道

山辺の道は、最高のエネルギースポットを結ぶ道なので、最高のエネルギーをもつ道であることは、勿論のことですが、私が一番、嬉しかったのは、ゴミがまったく、捨てられてないことでした。(笑顔)

つまり、ゴミをポイ捨てする人間が、殆ど通らない道なんですね。

私の住んでいる、田舎は、田んぼを通っても、畑を通っても、必ず、誰かが所々に、ポイ捨てしています。(ということは、ゴミが必ず捨ててあるということです)

よく、人はやったことが、返ってくると言われてますが(本当なのかなと疑問に思うのは、この理由も大きいです)、都会は当たり前にぽい捨てしている人が大勢いるし、田舎の人口の少ない場所でさえも、誰かが、ポイ捨てしてます。

つまり、これだけたくさんの人々が平気でポイ捨てして、許されて生かされているんですね。

そういう私も、実は、小学校低学年時には、ポイ捨てしてました。

どうして、ポイ捨てしていたのかは、小学校低学年なので、周りの環境の影響です。

私が子供のころは、林に入ると、当たり前のように、ゴミが捨ててあったり、道端には、あちらこちらに、ゴミが普通に捨ててありました。(すごい環境に育てられました(笑顔)

そして、子供の頃は、大人から、優しさを感じたことは、皆無で、荒んだエネルギー環境の中、多感な子供の時代を過ごしました。

それでも、小学校高学年になると、自然に殆どポイ捨てしなくなり、中学生になると、多分ポイ捨てすることは、自分の感性が耐えられなくなり、ポイ捨てすることは、まったくなくなりました。

今では、自然は神様が宿っていて、自分の体と感覚的には、まったく一緒のもので構成されていて、自分と、ある意味同体だと感じているので、そこに、ゴミを捨てるという発想がありえないものになりました。

まさに、ポイ捨ては、自分で自分を汚す行為以外のなにものでもないように感じます。

だからこそ、いっそう、山辺の道が、輝いて見えました。

ゴミがまったく、捨てられていない、道

よく、精神世界では、弥勒の世のことが、いろいろ書かれてますが、私にとって、弥勒の世は、ポイ捨てのない世の中です。

つまり、ポイ捨てすることが、感性的に絶対できない人々の世界

そして、見えるものでも、見えないエネルギーでも、人のものを奪わない、与え合う世界です。

いつもありがとう(∞☆∞)

追記

今日は、珍しく、ダークサイドにフォーカスしてしまいましたが、これも、浄化の過程なのだと感じてます。
9月9日以降は、よいことだけ書いていきます。

ちょっとした、今日のような軽いダークサイドは、このブログに書こうかななんて考えてます。
posted by 響 ミナ at 21:10| Comment(0) | 神社の神様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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